東京地方裁判所 昭和34年(ワ)421号 判決 1960年6月21日
原告 田中金次郎
右訴訟代理人弁護士 堀込俊夫
被告 吉井正志
右訴訟代理弁護士 泉芳政
主文
原告の各請求を棄却する。
被告の請求を棄却する。
訴訟費用は原告の負担とする。
事実
≪省略≫
理由
先づ本件建物(イ)の明渡等を求める原告の請求の当否について判断する。
原告がかねて本件建物一棟を所有しそのうち右側の一戸(本件建物(イ))を被告に、左側の一戸(本件建物(ロ))を訴外市川泰一に、それぞれ原告主張の約旨の下に賃貸していたこと、原告が昭和二十二年三月十五日被告に対し本件建物一棟を代金二万五千円内金一万円は契約の成立と同時に支払いを受け右建物については契約の成立と同時にその所有権を移転し且つこれを引渡す約旨の下に売渡す旨約し、被告は本件売買の成立と同時に原告と訴外市川泰一との間の前掲賃貸借につき賃貸人の地位を承継し又原告に対しては内金一万円を即日、残代金のうち五千円を同年十二月九日にそれぞれ支払つたことは当事者間に争いがない。右五千円を含む本件売買の残代金一万五千円の支払期日及び本件建物一棟の所有権移転登記の時期の点については争いがあるので以下の点について考えてみる。証人田中敏子(但し後記措信しない部分を除く)吉井正和の各証言被告本人尋問の結果を綜合すると、被告は昭和二十二年頃二十万円以上の財産税を賦課されてその金策に苦慮していた原告から前記のとおり賃借中の本件建物(イ)を含む一棟全部を買取るよう勧められたが当時被告は謄写版印刷の内職などをして生計をたて経済的に余裕がなかつたところから、一万円ならば応じようと申出たところ原告から代金は一万五千円但し内金一万円は納税の都合上同年三月十五日までに支払つて貰いたいが残代金については期間の猶予を与えよう、との申入を受けてこれを諒承しその後その金策中再び原告から、近隣の建物の時価と比較し一万五千円は低廉に過ぎるから売買代金は二万五千円に増額したい、との申入れを受けて結局これをも承諾し残代金一万五千円は、被告において都合のつき次第これを遅滞なく支払うとの趣旨の下にその支払期日の点につき確約をしないまま原告主張の日に右代金額で本件建物一棟を買受ける旨約したものであることが認められる。証人田中敏子の証言及び原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は措信できない。右認定の本件売買成立の経緯から考えてみると、残代金中五千円の支払期日の点は別としてもすくなくとも残金一万円の支払についてはその履行期限を定めなかつたものと認めるのが相当である。又右認定の事実と前記吉井証人の証言及び被告本人尋問の結果を綜合すると、本件売買に際しては代金のうち一万五千円の支払完了と同時に所有権移転登記手続をなす約旨であつたことがうかがえる(この点に関する原告本人尋問の結果は措信しない)が、右各人証によれば、昭和二十二年十二月九日残代金のうち五千円の支払をなした後被告が原告に右登記手続を求めたところ原告から、登記手続は残代金完済後にしたい、との趣旨の申入を受けて止むなくこれを承諾したことが認められ、右認定を左右するに足りる証拠は認められないから、右合意により結局本件売買においては残代金の支払は移転登記と同時履行の関係にはなく先給付の関係に立つに至つたものといわなければならない。又証人田中敏子の証言及び原告本人尋問の結果によると残代金一万円については原告は自ら或は妻の田中敏子を使者として昭和二十二年十二月末頃から昭和二十三年七、八月頃までの間数回にわたり口頭でその支払を催告したことが認められる。証人吉井正和の証言及び被告本人尋問の結果中右認定に反する部分は措信しない。右認定の事実によれば一万円の残代金債務は右催告により履行遅滞におちいりすくなくとも昭和二十三年八月末日以後相当期間の経過と共に本件売買の解除権が発生したものと認めるのが相当である。もつともこの点について被告は、右催告に際しては原告において所有権移転登記義務につき履行の提供をしていないから解除権は発生しないと主張するが、残代金の支払は登記義務の先給付たる関係にあつてその間に同時履行の関係のないことは前記認定のとおりであるから、被告の右主張は失当である。而して昭和三十三年十二月九日同月八日附の本件売買解除の内容証明郵便が被告に到達したことは当事者間に争いのないところであるが、右解除は前掲催告後十ヶ年以上を経過してなされているので以下その効果について考えてみる。およそ履行の催告後になされる解除権の行使については法律上その時間的制約はないが、催告が債務者の履行を促すいわゆる最後の通牒的一面を有する点に鑑みるときは、催告と解除権の行使との間に相当程度の時間的間隔があり、債務者をして債権者がもはや一方的に解除権を行使するようなことはなさないであろうと信ぜしめるに足りる事情の存するときには、あらためて催告しない限り、信義則上解除権の行使は許されないものと解するのが相当であるところ、証人吉井正和の証言原、被告各本人尋問の結果(ただし原本人尋問の結果については一部)弁論の全趣旨を綜合すると、被告は右催告を受けた後は原告から残代金の支払についての督促も受けず又金員の調達も不如意であつたところからその支払を遷延し原告としても売買代金が増額決定されるに至つた前記認定の事情経緯から被告に対し強硬にその支払を求めることも出来ずに日時が経過しその後経済事情の変動により貨幣価値が次第に低落するに至つたこと、原告は右催告後においても昭和二十五年頃まで引続き被告から本件建物一棟の敷地の賃料(被告が本件売買の成立と同時に原告から本件建物一棟を所有する目的をもつてその敷地四十七坪を期間の定めなく賃借したことは被告の争わないところである)を受取りその後は賃料増額についてのもつれなどからこれを受取らずに今日に至つていること、前掲催告後本件売買の解除に至るまでの間原告は被告に対し本件建物一棟の買戻しの交渉をしたことはあるが残代金の支払を求めたことのないこと、等の各事実が認められ(原告本人尋問の結果中右認定に反する部分は措信しない)、右事実を綜合すると、右は被告をして原告がもはや一方的に解除権を行使するようなことはなさないであろうと信ぜしめるに足りる事情と言うに妨げなく前提解除権の行使は被告にとり全く予期し得ない不意の一方的意思表示であつて信義上その行使は許されないものと言わなければならない。又原告の主張する本件売買の合意解除の点についてはこれを認めるに足りる証拠がないのみならず、かえつて被告本人尋問の結果によれば、被告は昭和二十三、四年頃から数回原告から合意解除についての交渉を受けたことがあるがその都度これを拒絶したことが認められる。従つて結局本件売買の解除を前提とする原告の本訴請求はその余の争点につき判断するまでもなく既にこの点において失当である。
つぎに所有権移転仮登記手続を求める被告の請求の当否について判断する。
被告がその主張の日残代金一万円を主張のように供託したこと及び被告がその主張する経緯により主張の仮登記仮処分命令を得その結果本件建物一棟につき被告主張の仮登記がなされていることは当事者間に争いがない。被告は右供託により売買残代金債務が消滅したとなし本件売買に基き右仮登記の本登記たる所有権移転登記手続を求めている。この点につき原告は、右供託は本件売買解除後の供託であり、然らずとするも被告は供託の前提として現実に弁済の提供をしていないから無効である、と主張するが、本件売買が解除の効力を生じていないことは前提認定のとおりであり又被告が現実に弁済の提供をしても確実にその受領を拒絶せられるであろうことは本件口頭弁論の全趣旨に徴し疑いを容れないところである(被告が右供託前原告に対し現実に弁済の提供をなしたことはこれを認めるに足りる証拠がない)から、右供託は前掲理由によつては無効となすを得ないが、残代金一万円の債務はおそくとも昭和二十三年八月末日にはその履行期が到来していることは前提認定のとおりであり、前記供託はその支払遅滞後十ヶ年以上を経過した昭和三十三年十二月十九日にしかも残代金一万円のみについてなされていることは当事者間に争いのないところであつて、法定の遅延損害金の提供を欠く右供託は債務の本旨に従つた履行と認めることができず従つて右残代金債務は消滅していないといわなければならない。そして右債務が原告の登記義務に対し先給付の関係にあるものであることは前提認定のとおりであるから結局被告の請求はその余の争点について判断するまでもなく既にこの点において失当である。
最後に前提仮登記の抹消を求める原告の請求の当否について判断する。
前掲認定のとおり本件売買については解除の効力が生じていないから右仮登記は登記原因を欠くものと言えず従つて右解除により本件建物一棟の所有権が原告に復帰した旨主張しこれを前提とする仮登記抹消の請求は失当である。
以上の次第で、原、被告の請求はいずれも理由がないからこれを棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八十九条第九十条を適用し主文のとおり判決する。
(裁判官 佐藤恒雄)